その頃、航は今まさに朱莉が検索していた「美ら海水族館」に来ていた。建物の外から身を隠す様に望遠レンズカメラで対象者の浮気現場をカメラに抑えていた。そして何枚か証拠画像を取ると、汗を拭った。「ふう~……本当に沖縄は暑いな……」先程自販機で購入したスポーツドリンクを飲むと木陰に移動し、機材チェックをしながら周囲をチラリと見た。水族館を訪れている客は全員がカップルかファミリー層である。航のように1人で来ている客は誰もいなかった。「全く……皆が羨ましいな。遊びに来ているのに俺は男の浮気現場の証拠写真を撮りに来ているなんて……」もっとも、安西家はこの仕事で生計を立てているので文句を言えないが、航はまだ22歳の青年。遊びたい盛りである。沖縄のビーチで泳ぎたいし、海岸線をドライブだってしてみたい。(一緒に朱莉と出掛ければもっと楽しいだろうな……)そこまで考えて航は我にかえる。「な、何でそこで朱莉の顔が浮かんでくるんだよ! 全く……あんな天然女……九条は何処が良かったんだ!?」航は自分自身に腹を立てながら、先程撮影した画像のチェックを始めた—―****—―23時 航はフラフラになりながら朱莉の住むマンションへと戻って来た。つい先ほどレンタカー会社によって車を返却し、そこから歩いて帰って来たので、もう身体は疲れ切っていた。「全く……那覇市から海洋博公園まであんなに遠いとは思わなかったぜ……高速に乗っても2時間以上かかるんだから……」朱莉から預かったカードキーを差し込み、ロック解除すると自動ドアが開く。航は中へ入るとコンシェルジュの男性と目が合った。その目は何となく航を値踏みするような視線に見えたが、知らんぷりをして航はエレベーターホールへと向かう。5Fのボタンを押し、欠伸を噛み殺しながらエレベーターに乗り込んだ。腕時計を確認すると時刻は23時半になろうとしている。(朱莉は多分もう寝てるだろうな。連絡位入れれば良かったか?)やがてエレベーターは5Fで止まり、航は朱莉の住む部屋のドアを開けて中に入ると驚いた。何と朱莉がキッチンのテーブルの椅子に座り、テーブルに頭を乗せて居眠りをしていたからだ。朱莉の前にはラップのかかった食事が置かれている。(ま、まさか、俺を今迄待っていたのか……?)「おい……。寝てるのか?」航は朱莉に近寄ると声をかけた。し
翌朝――「……君。航君……」誰かが呼ぶ声で航はゆっくり目を開けると、何とそこには朱莉が航を覗き込むように見下ろしていた。「な・な・なんだよ! お……驚かすなよ!」航はガバッと起き上がると朱莉に抗議した。「あ、ごめんね。勝手に部屋に入ったりして。ただ、今朝は何時に起こせばいいのか分からなかったから」「え?」航は慌てて部屋にかけてある時計を見ると驚いた。何と時刻は8時を過ぎている。「や……やべ! 寝過ごした!」そして飛び起きようとして朱莉を見た。「おい、いつまでここにいるんだよ……」「え? いつまでって?」「俺……着替えたいんだけど」「あ、ごめんね。気付かなかった。すぐ出るね」朱莉は立ち上がると、素早く部屋の外へ出て、ドアをパタンと閉めると呟いた。「朝ご飯……食べる時間無いかな?」そこで、朱莉は手早く支度を始めた—— 一方航はかなり焦っていた。「くそ! 寝過ごすとは!」航は急いで機材のチェックをし、本日の対象者の予定を書き記した手帳を確認する。「え~と確か今日は古宇利島へ愛人と行くって言ってたな……。全く婿養子のくせにいいご身分だ。こんなことしてられない!」慌てて着替えて、部屋を飛び出して朱莉に言う。「悪い! 朱莉。朝飯は……」航が言いかけた時、朱莉が水筒とランチバックを差し出してきた。「え?」航が戸惑った顔を見せると朱莉は笑顔になる。「食べる時間が無いでしょう? おにぎりと今朝のおかずを詰めたから時間がある時に食べて。一応保冷材はいれてあるけど暑いから早めに食べてね」「朱莉……」航は思わず胸に熱いものが込み上げてきて……ぐっと拳を握りしめると顔を上げた。「悪いな、朱莉。ありがと」「気にしないで。それじゃ気を付けて行って来てね」そして航は笑顔の朱莉に見送られてマンションを後にした―― 航が仕事に出かけた後、朱莉は自分の朝食を食べ、洗濯をしようとして気が付いた。「そうだ。今日航君が帰ってきたら洗濯物のこと言わないと。ひょっとして私に気を遣ってコインランドリーを使ってるかもしれないし」 洗濯物を回し、部屋の掃除をする為に片づけをしているとリビングのソファの椅子の下にチケットらしきものが落ちているのを発見した。「どこのチケットだろう……?」拾い上げてみると、それは朱莉が行きたいと思っていた『美ら海水族
朱莉は今、ベビー用品を取り扱っている専門店へとやって来ていた。「え、と……新生児用の肌着に紙おむつ、ベビー布団、ベビーベッド、おくるみ、抱っこ紐……」揃える品物があまりにも多すぎて、朱莉はクラクラしてきた。けれど……。「フフフ……。赤ちゃんか。すごく可愛いんだろうな……」だが、朱莉が育てるのは自分で産んだ子供ではない。明日香が産んだ子供なのだ。そして契約書通りに明日香の子供が3歳になったら、翔と明日香に子供を託し、朱莉は離婚をして、あの億ションを出ることになる。朱莉は溜息をつくと思った。(きっと3歳で私と別れれば、その子の記憶に私は残ることは無いんだろうな。だったら私との写真は撮ったら駄目だよね。お母さんに写真をもし見せるなら赤ちゃんだけの写真を撮って見せてあげよう……)つい数年先の未来を思い描き、暗い考えが頭をよぎる。朱莉は頭を振ると、買い物メモを見ながら、慎重に商品を選び始めた—―****その頃――「ふう~……疲れた……」航が機材を抱えながら朱莉のマンションへと帰って来た。「朱莉? 次の仕事まで時間が空いたから一度戻って来たぞ」しかし、部屋の中はしんと静まり返り、時折ネイビーがおもちゃで遊んでいる音が響くばかりである。「朱莉? いないのか?」機材を置くと航はリビングへ足を踏み入れた。「何だ。パソコンがつけっぱなしじゃないか……」朱莉のパソコンは電源が入りっぱなしで、沖縄の海の映像がスクリーンセーバーとして映し出されている。「全く……電源入れっぱなしで……」うっかり航はマウスに触れてしまい、画像が切り替わった。それは姫宮から届いた契約書の文面を表示した画像だった。その内容を目にした航の顔色が変わる。「な、何なんだ。この契約書は……うん? 待てよ。これは訂正前の契約書なのか? それにしても……」朱莉が翔と交わした契約婚の書類を航は悪いと思いつつ、ザッと目を走らせるように内容を読みこんだ。そして読めば読むほど、翔に対して激しい怒りが込み上げてきた。「い、一体何なんだ? この鳴海翔と言う男! 6年後には離婚? 明日香が産んだ子供は朱莉が産んだことにして手がかからなくなるまでは朱莉が1人で世話をするだって!? し、しかも恋愛禁止、必要以上に異性と親しくするなって……何考えてるんだよ! 本当に朱莉はこんな条件を飲んで契約婚
「え~と、次に必要なのは……あ、ベビーバスがいるんだ」朱莉は買い物メモを見ながら品物をチェックしている。航は大きなカートを押しながら朱莉の後を黙ってついて来ていた。(くっそ〜やっぱりついて来るんじゃなかった……!)今、航は激しく後悔していた。何故ならこのベビー用品売り場で航は完全に目立ちまくっていたからだ。航は22歳で髪を茶髪に染めた今どきの若者。しかも平日にも関わらずTシャツ姿にジーンズ、そしてスニーカーといういで立ちである。目立つのは当然だ。おまけに航は成人男性ながら、時々高校生にも間違われることがある程の童顔。その為につい、朱莉も航を子供扱いしてしまうのである。女性店員たちが何やらひそひそと航を見ながら囁き合っている。(あの店員達……完全に俺が赤ん坊の父親になると思ってるな?)イライラしながら横目で女性店員をジロリと睨み付けると、2人の女性店員は慌てたようにパッと航から視線を逸らす。「航君、御免ね。次は向こうの売り場に行ってくれる?」朱莉は振り返ると申し訳なさそうに航に声をかける。「ああ、いいぜ。次は何買うんだ?」朱莉の前でイラつく顔は出来ないと思い、航は無理矢理顔に笑顔を張りつかせると、朱莉の後を素直について行く。あらかた店内を見渡した朱莉は買い物リストをチェックしている。「え~と。ベビーバスに、ベビーカーに、チャイルドシート……ベビー枕に防水シーツに哺乳瓶と消毒ケースと消毒薬でしょう? 粉ミルクはアレルギーとか、賞味期限があるから、まだ買えないし……」朱莉はブツブツ言いながら買い物メモを見つめているが、その横顔はとても嬉しそうだった。「朱莉」航はそんな朱莉に声をかけた。「何?」「いや、随分楽しそうに買い物してるなって思って」航は突然照れ臭くなり、視線を逸らせる。「勿論、とっても楽しいよ。だって赤ちゃんのお迎え準備の買い物なんだもの。フフ……きっと小さくて可愛いんだろうな……」朱莉は頬を染めて嬉しそうにしている。そんな朱莉を見下ろしながら航は思った。(だけど朱莉。その子供はお前の子供じゃないんだぞ? 幾ら可愛がっても3年で子供と別れて子供はお前のことなんかすぐに忘れてしまうんだぞ? そんなんで…・お前は幸せなのかよ……っ!)子供と別れる時の朱莉の心境を思うと、航は胸が苦しくなった。「どうしたの航君。あ、もしか
帰りの車の中――「ねえ、航君」「うん、何だ?」「いいの? 運転して貰ってるけど」「ああ、気にするなよ。俺は運転好きだからな」「ふ~ん。それじゃドライブもするんだ?」「ああ、そうだな」「やっぱり男の人ってみんなドライブが好きなんだね」朱莉のポツリと言った一言が何故か航は気になった。「なあ、朱莉。その男の人の中には九条も含まれてるのか?」苛立ちを押さえているつもりだが、つい強い口調になってしまう。「九条さん? うん。多分好きかなあ……」「な、何!? 朱莉……お前、九条が好きなのか!?」思わず握るハンドルに力を込めながら航は横目で朱莉を見る。「え? だって今航君が聞いたんでしょ? 九条さんは運転は好きなのかって」朱莉は不思議そうに首を傾げる。「あ、ああ……なんだ……そっちか。そうか、九条の奴も運転が好きなのか」つい、敵意が籠った口調になってしまう。「航君……。やっぱり疲れてるんでしょう?」「何でそう思うんだよ」「だって……何だかイライラしているように見えるから。ごめんね、買い物付き合わせて」「だ、だから謝るなって! 第一俺から買い物に付き合おうかって声をかけたんだからさ」(全く……朱莉と一緒だと自分のペースが乱されるな)しかし、何故か朱莉の近くは居心地がいいと感じる航であった。**** 18時―― 買って来た荷物は物凄い量になった。それを見て航は呆れたように言った。「なあ、朱莉。こんなに大量に買い物して何処においておくつもりなんだよ。ベビーダンス迄あるじゃないか」「大丈夫だよ航君。このリビングにはね、約3畳の広さのウォークインクローゼットがあるんだから」言いながら朱莉がリビングの扉を開けると、そこから3畳もの広さを持つ収納部屋が現れた。「ははは……やっぱりすげーな……」乾いた笑いをする航。(朱莉の為にこんな立派なマンションを借りる九条といい、このマンションの家賃を躊躇うことなく簡単に支払える鳴海といい……自分とは住む世界が全く違うんだってことを改めて思い知らされるな……)自分が酷く小さな人間に感じてしまう。惨めな気持ちになり、思わず俯いた航を見て朱莉は声をかけた。「航君、どうしたの? 疲れたんでしょう? リビングのソファで休んだら? 19時になったら起こしてあげるから」「ああ、そうだな……そうさせて貰
「航君……?」航は無言のまま、朱莉を抱きしめている。眠気なんかとっくに覚めていた。(うわああああ! ヤバイヤバイヤバイ! な・な・何で俺……朱莉を抱きしめてしまったんだよ!)今、航は自分が非常にまずい立場に置かれている事に焦りを感じていた。あまりに焦り過ぎて、完全に動きが止まってしまった。しかし、朱莉は何を勘違いしたのか、口を開いた。「航君……。ひょっとしてまだ寝ぼけてるの?」朱莉が航に抱き締められたまま、耳元で言う。(そ、そうか……! 朱莉はまだ俺が寝ぼけてると思ったんだな!? だったらこのまま寝ぼけたフリをしてやれ……!)航はやけくそになって寝ぼけたフリを必死で演技した。「う~ん……もう食べられない……」我ながら下手くそな演技で、恥ずかしくなってくる。(何が、もう食べられないだよ!)もはや自分で自分に突っ込んでいる状態である。しかし、朱莉は上手く引っ掛かってくれた。「あ、やっぱりまだ寝てるんだ。航君、起きて!」「う……ん……あれ……? 朱莉か……?」航は朱莉から身体を離すとわざと目を擦り、たった今目が覚めたかのような演技を必死で続ける。「ああ、良かった。やっと目が覚めたんだね? 航君。もう19時過ぎてるよ?」「な、何だって!? まずい!」今度こそ航は演技抜きで驚き、慌ててソファから飛び起きた。「朱莉! 起こしてくれてありがとう!」航は慌てて機材と荷物を取りに行くと、すぐに玄関へ向かった。「朱莉、今夜はひょっとしたら帰れないかもしれないから俺のことは気にせず、戸締りをしっかりして寝るんだぞ?」「うん。大丈夫だよ、だって今までもずっとそうだったんだから。あ、そうだ」朱莉は再び航にマグボトルとランチバックを差し出す。「一応お弁当作ったの。手の空いた時にでも食べて?」「朱莉……ありがとな」航は朱莉からボトルとランチバックを預かった。(また俺なんかの為に……)航は感動し、不覚にも顔が赤くなりそうになり、慌てて朱莉から顔を背ける。「そ、それじゃ行って来る」「うん。行ってらっしゃい」こうして航は朱莉に見送られながら、玄関を後にした。「急がないと!」マンションを飛び出すと、航はレンタカー屋へ向かって走った。(全く……中年のオヤジなんだからホテルで大人しくしてりゃいいものを……!)思わず航は心の中で毒づいていた
お風呂に入り、特にすることも無くなってしまった朱莉は書きかけだった絵葉書を書くことにした。母に宛てた手紙はすぐに書き終えることが出来たのだが、問題は京極の方だ。姫宮と一緒にいるあんな写真を見せられてしまった為に朱莉は今後どういう態度で京極に接すればいいのか分からなくなっていた。京極は朱莉にとって謎だらけの人物だったのだ。メッセージを送ると京極に約束はしたものの、それだとすぐに京極から返信が来てしまう。それならまだ絵葉書を書いて出した方がいいだろうと朱莉は考え、今京極に手紙を書こうとしているのだが……。「京極さんが航君みたいに分かりやすい性格だったら良かったのに……」本当は正直な所、手紙を書くのも迷いがある。しかし、電話越しから聞こえて来た京極の朱莉を案ずるような声。東京で散々京極にお世話になったことを考えると、何も知らないフリをして京極に手紙を書くしか無かった。「取りあえず私のことはあまり書かないようにして、ネイビーのこととマロンの状況を尋ねる内容の文章にしようかな……」そして朱莉はペンを手に取った―― 色々考え抜いた挙句、朱莉は1時間近くかけてようやく葉書を書き終えた。一通り読み返して、文面がおかしく無いか、誤字脱字は無いかを確認する。「うん、大丈夫そう。明日葉書出さなくちゃ」朱莉は玄関のシューズケースの上に葉書を置くと自室へ入った。ベッドの中に潜り込むと、色々と今後のことを考えた。 京極は勘のいい人間だ。もし仮に朱莉が生まれたばかりの明日香の子供を抱いて、あの億ションに戻った時の京極の反応はどうだろう?恐らく絶対に朱莉が産んだ子供では無いという事がすぐにバレてしまう。もし、そうなったら今迄塗り固めて来た嘘が全てバレてしまう。京極には恩義があるが。彼とは距離を置いた方がいいだろう。「翔先輩と離婚をするまではあの億ションにいたくないな……。赤ちゃんと一緒に何処か別のマンションに住めればいいんだけど……」姫宮には何でも相談するようにと言われているが、姫宮と京極の関係が謎である以上、彼女の力を借りるわけにはいかない。(明日……翔先輩に……相談して……みよう……)そして、朱莉は眠りに就いた――****深夜1時。疲れた体を引きずりながら航は朱莉の住むマンションへと戻って来た。エレベーターに乗り込むと、5階行のボタンを押し、欠伸
翌朝―― 6時に起きた朱莉がキッチンへ行くと、テーブルの上に航からのメモが乗っていた。『おはよう朱莉。今朝は9時に出掛けるから、悪いけど8時まで寝かせてくれないか? よろしく』「航君何時に帰って来たのかな? でも8時なら余裕があるよね。あ、それなら!」朱莉は出掛ける準備を始めた—―8時――航が目を擦りながらキッチンにいる朱莉に声をかけてきた。「おはよう、朱莉」「おはよう、航君。ねえ、昨夜は一体何時に帰って来たの?」「う~ん……夜中の1時か? その後、シャワーを浴びて……寝たのは1時半頃だった気がするな」それを聞いた朱莉は心配そうに眉を潜めた。「ねえ……。身体の具合はどう? 疲れたり……してない?」「な、何言ってるんだ。大丈夫に決まってるだろう? 俺はまだ22だし、睡眠時間だって6時間以上取っているんだから」朱莉がそこまで自分のことを気に掛けてくれているのかと思うと、つい顔が緩みそうになり、慌てて視線を逸らせた。「そう? ならいいんだけど……。ねえ、朝ご飯、今日は家で食べれる?」「ああ。今朝は余裕があるから大丈夫だけど……」航がそこまで言いかけると、みるみる内に朱莉の顔が笑顔になる。「な、な、何でそんな嬉しそうな目で見るんだよ」思わず航の顔がカッと熱くなる。「だって……一緒に食事が出来るのが嬉しくて」朱莉はにこやかに答える。「朱莉……」(駄目だ、勘違いするな。朱莉が俺と食事をしたいのは俺に気がある訳じゃなくて、誰かと一緒に食事がしたいだけなんだから!)航は必死で自分の心に言い聞かせた。「あのね、実は今朝はご飯じゃないんだけど、いいかな?」席に着いた航に朱莉は尋ねた。「ああ、別に何でもいいぜ。俺は好き嫌いは無いから」「良かった〜。実はちょっぴりリッチな高級食パンを売っているお店が近所に出来て、今朝買って来たの」朱莉は買って来た食パンを航に見せた。「何? 朝からわざわざ買いに行って来たのか?」「うん、まだ私も一度も食べた事が無いんだけど……航君と一緒に食べたいなって思って買って来たの」「そ、そうだったのか?」(だから……勘違いさせるような事を俺に言うんじゃない!)航は朝っぱらからすっかり動揺していた。ただでさえ昨夜偶然目にした京極宛のポストカードで頭の中は一杯なのに、その上朱莉の勘違いさせるようなこの言
「ああ、そうだ。1人目のアイツは鳴海翔のことだ。そして2人目のアイツは京極正人の方だ。で、どっちのアイツから言われたんだ!?」航の真剣な様子とは裏腹に奇妙な言い回しのギャップがおかしくなり、朱莉は思わず笑ってしまった。「フフフ……」「な、何だ? 朱莉。急に笑い出したりして。とうとう悩みすぎて現実逃避でもしてしまったか!?」焦りまくる航の様子が更におかしくて、朱莉は笑った。「う、ううん。フフフ……そ、そうじゃないの。航君の様子が……お、面白くて、つ、つい……」「朱莉……?」(何だ? 今俺、そんなにおかしなこと言ってしまったか? 焦って妙なことでも口走ったか?)「ご、御免ね……。航君。航君は……フフッ。し、心配してくれているのに笑ったりして……」そして暫く朱莉は笑い続けていたが、その様子を航は黙って見ていた。(いいさ、俺の言動で朱莉を楽しい気持にさせられたなたら少しは朱莉の役にたててるってことだよな?)ようやく笑いが収まった朱莉は事情を説明した。「実はね、京極さんから電話がかかってきたの」「そうか、やはり電話の相手は京極のほうからだったのか。それでアイツは何て言ってきた?」そこまで言って、航はハッとなった。「ご、ごめん。朱莉のプライベートな話だったよな。口を挟むような真似をして悪かった」普段から仕事で個人情報を取り扱う機会が多い航は、咄嗟にそのことが頭に浮かんでしまった。「何で? そんなこと無いよ。むしろ……」朱莉はその時、突然航の左腕を掴んだ。「迷惑じゃないと思ってくれるなら……口……挟んで……?」「朱莉……」朱莉のその目は……航に助けを求めていた——****「あの京極って男に下手な嘘は通用しないぞ」今、航と朱莉は2人で向かい合わせにリビングのソファに座って話しをしていた。「そう……だよね……」「京極に限らず、恐らく他の誰もが嘘だと思うだろう。第一、子供を産む状況にしてはあまりにも不自然な点が多すぎる。本当に鳴海翔は何を考えているんだ? いや……恐らく、あの男は何も考えていないんだろうな。面倒なことは全て朱莉に丸投げしてるんだから。少しでも誠意のある男なら、色々な手を使って不測の事態が起こっても大丈夫なように根回しをするだろう。それなのに……」航は悔しくて膝の上で拳を握りしめている。「航君……」今迄朱莉はそん
その日の21時― 食事を終えて航がお風呂に入っている間、朱莉は後片付けをしていた。食器を洗っている時に、朱莉の個人用スマホに電話の着信を知らせる音楽が鳴り響く。(ひょっとして京極さん?)水道の水を止め、慌ててスマホを確認するとやはり相手は京極からだった。朱莉はバスルームをチラリと見たが、航が上がって来る気配は無い。緊張する面持ちで朱莉は電話に出た。「はい、もしもし……」緊張の為、朱莉の声が震えてしまう。『朱莉さんですね…』受話器越しから京極の声が聞こえる。「はい、そうです」『良かった……嫌がられてもう電話に出てくれないのでは無いかと思っていたので』京極から安堵のため息が漏れた。「いえ、そんなことは……それに明日会う約束をしていますから」『本当に僕と会ってくれるのですか?』「え?」(だって、京極さんから言い出したんですよね……? 一度約束したことを断るなんて……)「で、でも今日明日会う約束をしましたよね? だから断るなんてしません」朱莉は躊躇いながら返事をした。『人は……簡単に約束なんか破るものですよ』京極は何処か冷淡な、冷めた口調で言う。「え?」『あ、いえ……。朱莉さんに限って、そんなことはするような人じゃないのは分かっています。ただ……』京極はそこで一度言葉を切る。『彼は今、そこにいるのですか?』「彼? 航君のことですか? 今お風呂に入っていますよ」朱莉はバスルームに視線を移すと返事をした。『そうですか。それで明日なんですが、少し時間が早いかもしれませんが9時に会えませんか? 朱莉さんの住むマンションのエントランスで待ち合わせをしましょう』「9時ですね。分かりました」『ありがとうございます、朱莉さん。僕の願いを聞き入れてくれて』「ね、願いだなんて大袈裟ですよ」京極の大袈裟ともいえる発言に朱莉は思わず狼狽してしまった。『それではまた明日。おやすみなさい』「はい、おやすみなさい」それだけ言うと電話は切れた。「……」朱莉はスマホを握りしめたまま考えていた。(どうしよう……もう、私が妊娠していないってことは京極さんにバレてしまった。翔先輩には何とかうまい言い訳をして欲しいって言われたのに……)いっそ、もう子供は出産したと言ってしまおうか? 早産になってしまったので今生まれた赤ちゃんは病院の保育器
(え……? あ、朱莉……。それは……一体どういう意味なんだ!?)航は次の朱莉の台詞に期待しながら尋ねた。「あ、朱莉。何故俺だと楽しく感じるんだ?」「うん。それはね……航君だと気を遣わなくて済むって言うか、一緒にいて楽な人……だからかなあ?」「あ、朱莉……」(え……? こ、こういう場合俺はどう解釈するべきなんだ? 喜ぶべきなのか? それともがっくりするべきなのか? わ、分からねえ……やっぱり朱莉の気持ちが俺には分からねえ……)朱莉の発言に航は頭を抱えてしまうのだった—―****「残念だったな。あの水族館で食事出来なくて……」駐車場に向って歩きながら航が残念そうに言う。「うん。でも仕方が無いよ。だってあんなに大きな水槽を観ながら食事が出来るお店だよ? 誰だって行ってみたいと思うもの。でも、私は大丈夫。だってもう十分過ぎる位水族館を楽しんだから」朱莉は笑顔で答える。「また……きっといつか来れるさ」「そうだね。私は多分このまま明日香さんが赤ちゃんを産んで帰国する直前までは沖縄にいることになりそうだから」「朱莉…」朱莉の言葉に航は胸が詰まりそうになった。(そうだ……。俺は2週間後には東京へ帰らなくてはならない。いや、それどころか、大方依頼主の提示して来た証拠はもう殆ど手に入れたんだ。だからその気になれば明日東京に帰っても何の問題も無い……)だが、航は当初の予定通り3週間は沖縄に滞在しようと考えていた。それは朱莉を1人沖縄に置いておくのが心配だからだ。(いや、違うな。本当は俺が朱莉から離れたくないだけなんだ。朱莉にとって、俺は弟のような存在でしか無いのかもしれない。でも……それでもいいからギリギリまでは朱莉の側に……) 例え4カ月後に朱莉が東京に戻って来れたとしても、その時の朱莉は鳴海翔と明日香の間に出来た子供を育てていくことになるのだ。そうなると、もう航は子育てに追われる朱莉と会うことが叶わなくなるだろう。だから、それまでの間は出来るだけ東京行を引き延ばして、沖縄で朱莉との思い出を沢山作りたいと航は願っていた。「……」航は隣を歩く朱莉をチラリと見た。朱莉は周りの美しい風景を眺めながら歩いている。そんな朱莉を見ながら航は声をかけた。「よし、朱莉。それじゃちょっと遅くなったけど、何処かで飯食って行こう!」「うん、そうだね。何処で食
高速道路を使って2時間程車を走らせ、朱莉と航は美ら海水族館のある海洋博公園へと到着した。「朱莉、ほら行くぞ」駐車場を出ると航は後ろを歩く朱莉に振り向いて声をかけた。「うん」朱莉は人混みの間を縫うようにして航の隣にやって来た。「それにしてもすごい人混みだね。平日なのに」「ああ、そうだな。この間は水族館の中には入らなかったけど、まさかこんなに人が来ているとは思わなかった。もうすぐ夏休みだって言うのにこの人混みじゃ夏休みになったらもっと混むかもな」「うん。駐車場も結構混んでいたものね」「よし、それじゃ行くぞ。朱莉、はぐれないようにな」言いながら航は思った。(朱莉が彼女だったら、はぐれないように手を繋いで歩くことも出来るんだけどな……。しかし朱莉は書類上人妻だ。そんな真似出来るわけないか)等と考え事をしていたら、再び朱莉を見失ってしまった。「朱莉? 何所だ?」航はキョロキョロ辺りを見渡すと、航のスマホに着信が入ってきた。着信相手は朱莉からであった。「もしもし、朱莉? 今何所にいるんだ!?」『今ね1Fのエスカレーターの前にいるの』「エスカレーター前だな? よし、分かった! すぐ行くから朱莉、絶対にそこを動くなよ!」航は電話を切ると、急いで朱莉の元へと向かった。「朱莉!」「あ、航君」朱莉がほっとした表情を顔に浮かべた。「すまなかった、朱莉。まさか本当にはぐれてしまうとは思わなかった」「うううん、いいの。こんなに混んでいれば仕方ないよ。私、それにあんまり出歩かないから人混みに慣れていなくて」「だったら……」航はそこまで言いかけて、言葉を切った。(駄目だ……手を繋ごうか……なんてとても朱莉に言える訳ない)「どうしたの航君?」朱莉は不思議そうな顔で航を見た。「い、いや。それじゃ、なるべく壁側を歩くか」「うん、そうだね」そして2人は壁側を歩き、順番に展示コーナーを見て回ることにした。「うわあああ~すごーい」朱莉が目を見開いて、声を上げた。「ああ、本当にすごいな。水族館は何回か行ったことがあるけど、こんな巨大水槽を見るのは初めてだ」航も感心して見上げる。朱莉と航は今、巨大水槽『アクアルーム』で巨大ジンベイザメや巨大なマンタなどが泳ぐ姿を眺めている。それはまさに目を見張るような光景で、朱莉はすっかり見惚れていた。そん
「朱莉さん……」京極が顔を歪めた。「朱莉……」航は朱莉の悲しそうな顔を見て激しく後悔してしまった。(くそ! あいつに煽られてつい、言い過ぎてしまった)「ごめん、悪かったよ朱莉。俺のことは気にするな。2人で出掛けるといい。俺は邪魔するつもりはないからさ」航は無理に笑顔を作った。(そうさ。所詮俺がいくら朱莉のことを思っても朱莉にとっての俺は所詮弟なんだから。だったら京極の方が朱莉にお似合いだろう。あいつは地位も名誉もある。俺とは違う大人なんだから)「航君……。私は航君と出かけたい……よ? だって航君と一緒にいると楽しいし」朱莉が声を振り絞るように言う。「朱莉……」すると後ろで何を思って聞いていたのか、京極が声をかけてきた。「安西君。悪いですが、そこのコンビニの前で止まってくれませんか?」「何か買い物でもあるんですか?」「……」しかし京極は答えない。(チッ……! 無視かよっ!)「はい、着きましたよ」航はコンビニの駐車場に停めると京極に声をかけた。「ああ、ありがとう。それじゃ、俺はここで降ります。あなた達だけで行って下さい」京極の口から思いがけない言葉が飛び出してきた。「え?」航は驚いて京極を振り返った。「京極さん?」朱莉も驚いている。「すみませんでした。安西君。朱莉さん。無理矢理ついて来てしまって。朱莉さんの気持ちも考えず、本当にすみません」京極は頭を下げると、車を降りた。「京極さん! あ、あの……私……」朱莉が声を掛けると、京極は寂し気に笑みを浮かべる。「朱莉さん……明日は……いえ、お願いです。明日は僕に時間を頂けませんか?」「あ……」(どうしよう……航君……)朱莉は助けを求めるように航を見た。すると航は肩をすくめる。「いいんじゃないか? 朱莉。京極さんと会えば。俺は明日仕事があるからさ」(え? でも、もう殆ど仕事は終わったって言ってたじゃない?)しかし、朱莉は気が付いた。それは航の気遣いから出た言葉だと言うことに。「分かりました。明日大丈夫です」「そうですか、ありがとうございます。それでは何所へ行くかは知りませんが、楽しんできてください」京極は笑顔で言うと車から頭を下げてコンビニへ向かって歩いて行った。その後ろ姿を見届けると航は言った。「朱莉、行こうか?」「うん……行こう」そして航は
車内はしんと静まり返り、一種異様な雰囲気を醸し出していた。誰もが無言で座り、口を開く者は1人もいない。(くそっ! こんな空気になったのも……全ては何もかもあの京極のせいだ……)航はイライラしながらバックミラーで京極の様子を確認すると、彼は何を考えているのか頬杖を突いて、黙って窓の外を見ている。(本当に得体の知れない男だ。こんなことになるなら、あいつのことももっと調べておくべきだったな)その時ふと隣から視線を感じ、チラリと助手席を見ると朱莉が心配そうな顔で航を見つめていた。その瞳は不安げに揺れていた。(朱莉……そんな心配そうな目で見るな。安心しろ、俺が何とかしてやるから)心の中で航は朱莉に語りかけると言った。「朱莉、車内に何かCDでも積んであるか? もしあるなら車内で聞こうぜ」「え、えっとね……。それじゃ映画のテーマソング集のCDがあるんだけど……それでもいい?」「ああ、勿論だ。何てったって、この車は朱莉の車だからな」航は笑顔で言いながら、チラリとバックミラーで京極の顔を見ると、不機嫌そうな顔で腕組みをして前を向いていた。「これ……なんだけど。かけてもいい?」「ああ、いいぞ。それじゃ入れてくれるか?」航の言葉に朱莉は頷くと、CDを入れた。すると美しい女性の英語の歌声が流れてくる。「ふ~ん……初めて聴くけどいい歌だな。これも映画の歌なのか?」するとそれまで黙っていた京極が口を開いた。「朱莉さん、この映画は『オンリーワン』というハリウッドの恋愛映画ですね。この映画、朱莉さんも観たんですか?」「え、ええ……あの、テレビで夜中に放送した時に録画して観たんです」朱莉は躊躇いがちに答えた。すると京極は続ける。「前回は一緒に映画の試写会へ行くことが出来なくて残念でした。でも朱莉さん、また試写会のチケットは貰えるので、今度手に入ったらその時こそ御一緒して下さいね」「は、はあ……」朱莉は曖昧に返事をした。京極はにこやかに話しかけてくるが、朱莉は内心ハラハラして仕方が無かった。何故、京極は前回朱莉が行くことが出来なかった試写会の話を今、しかもよりにもよって何故航の前でするのだろうか?朱莉は恐る恐る航を見ると、航は何を考えているのか無言でハンドルを握りしめ、前を向いて運転している。(航君……)朱莉にとってはまさに針のむしろ状態だ。しかし
「は、はい……すみません……」項垂れる朱莉に航は声をかけた。「朱莉、別に謝る必要は無いぜ」「! また君は……っ!」京極は敵意の込めた目で航を見た。「ところで京極さん。そろそろいいですか? 俺と朱莉はこれから2人で出掛けるんですよ。話ならメールでお願いしますよ。それじゃ、行こう。朱莉」航が朱莉を手招きしたので、朱莉は京極の方を振り向くと頭を下げた。「すみません。京極さん……。何故沖縄にいらっしゃるのかは分かりませんが、また後程お願いします」そして朱莉は航の方へ歩いて行こうとしたとき、京極に右腕を掴まれた。「!」朱莉は驚いて京極を見た。「朱莉さん……待って下さい」「朱莉!」航は朱莉の名を呼ぶと京極を睨んだ。「……朱莉を離せ」「……」それでも京極は朱莉の右腕を掴んだまま離さない。「あ、あの……京極さん。離していただけますか?」「嫌です」京極は即答した。「え?」朱莉は耳を疑った。「僕も一緒に行きます。いえ、行かせて下さい」「な、何を……っ!」航は京極を睨み付けた。「朱莉さん、お願いです……。僕もついて行く許可を下さい……」その声は……どこか苦し気だった。「あ、あの……私は……」朱莉にはどうしたら良いのか判断が出来ず、助けを求めるように航を見つめた。(朱莉は今すごく困ってる。俺に助けを求めているんだ……! きっと朱莉の性格では京極を断り切れないに決まってる。だったら俺が決めないと……)「……分かりましたよ。そんなについてきたいなら好きにしてください」航は溜息をついた。「……何故、君が判断をするんですか?」京極はどことなくイラついた様子で航に言う。するとすかさず朱莉が答えた。「わ、私は……航君の意見を優先します」「朱莉さん……」京極は未だに朱莉の右腕を掴んだまま、何所か悲しそうな目で朱莉を見つめた。「……もういいでしょう? 貴方は俺達と一緒に出掛けることになったんだから朱莉の手を離してくれませんか?」航は静かだが、怒りを込めた目で京極を見た。「分かりました、離しますよ」そして朱莉から手を離すと京極は謝罪してきた。「すみません。朱莉さん。手荒な真似をしてしまったようで」「いえ……別に痛くはありませんでしたから」朱莉は俯きながら答えた。そんな様子の朱莉を見て、航は声をかけた。「朱莉、助手席に乗
「君は一体誰だい? しかも彼女のことを『朱莉』って呼び捨てにしたね? どう見ても君は朱莉さんよりも年下に見えるけど?」京極はどこか挑戦的な目で航を見ている。「あ、あの……京極さん。彼は……」朱莉が慌てて口を挟もうとしたところを航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から説明するから」すると再び京極の眉が上がった。(ふん。俺が朱莉って呼び捨てにするのが余程気にくわないらしいな)航は心の中で思いながら京極を見た。「俺は、安西航って言います。貴方のお名前も教えてくださいよ」航は口角を上げながら京極に尋ねた。(え……? 航君……京極さんの名前、知ってるんじゃなかったの……?)朱莉は心配そうな目で航を見ると、2人の目と目が合った。航は朱莉と目が合うと心の中で語り掛けた。(大丈夫だ、朱莉。俺に任せておけ)そして改めて京極を見た。「僕は京極正人と言います。東京では朱莉さんと親しくお付き合いさせていただいていました」京極は朱莉を見るとニコリとほほ笑んだ。「……」朱莉は困ってしまい、俯く。(京極さん……あの写真……姫宮さんと一緒に写った写真さえ見なければ貴方を不審に思うことは無かったのに……」朱莉のその様子に気づいたのか、京極が声をかけてきた。「朱莉さん? どうかしましたか?」「い、いえ。何でもありません」朱莉はとっさに返事をし、不安げに航に視線を移す。(朱莉……そんな心配そうな顔するな)そんな朱莉を見た京極は敵意を込めた目で航を睨んでいる。「君の名前は分かりましたけど何故、彼女を呼び捨てにするんです? それに何故朱莉さんと一緒にいるんですか?」「俺は今朱莉と一緒に住んでるからですよ」「何!?」京極が険しい顔で航を見る。「航君……!」しかし、航は涼しい顔で答えた。「俺は朱莉のいとこで、東京の興信所で働いているんです。今回は調査のために沖縄へやって来たので、朱莉の家に仕事が終了する期間まで居候させて貰ってるんですよ」それを聞いた京極は朱莉を見ると尋ねた。「今の話は……本当ですか?」「え……あ、あの……」朱莉が口ごもると航が言った。「本当は沖縄で安い宿泊所に泊まろうかと思っていたんですよ。いとこって言っても男と女ですからね。だけど、宿泊所が何所もいっぱいで親切な朱莉が居候させてくれたんです。そうだろう、朱莉?」(航君……。
朱莉と航は向かい合わせで食事をしていた。航はキーマカレーが余程気に入ったのか、既に2杯目を食べている。「朱莉。明日だけど何時にここを出ようか?」「私は別に何時でも構わないよ。でも、出来ればゆっくり水族館の中を見たいな。あ、あのね……航君笑わないで聞いてくれる?」朱莉は恥ずかしそうに俯くた。「何だ? 遠慮せずに言えよ。別に笑ったりしないから」「本当? それじゃ言うけど……実は私この年になっても、まだ一度も水族館て行った事が無いんだ」「え? そうなのか? それじゃ俺と明日行くのが初めてなのか?」それを聞いた航は自分が情けないほど、口元が緩んでしまった。「あ……やっぱり笑ってる?」朱莉が上目遣いで航を見た。「い、いや。違うって。そうじゃないんだ。ただ……朱莉の初めての相手が俺だってことが嬉しくて……」航は言いかけて、途中でとんでもない発言をしてしまったことに気が付いた。(し、しまった……! マ、マズイ。今の言い方、捕らえようによっては……俺、恐ろしいことを口走ってしまったぞ!)恐る恐る朱莉を見る。けれど朱莉は何を考えているのか、美味しそうにキーマカレーを食べ続けている。(よ、良かった……朱莉が極端に鈍い女のお陰で助かった……)航は心の中で安堵し、明日のスケジュールを頭の中で考えた。美ら海水族館の開始時間は8:30からである。(開始時間に合わせていくと6時には出た方がいいかもしれないけど、それだと早すぎだからな……)「よし、朱莉。明日は9時に出よう。ちょっと出るには遅い時間かもしれないが、別に明日は水族館だけ行けばいい話だからな。他の場所はまた翌日に行こう」「うん」航の言葉に朱莉は笑みを浮かべて頷いた——**** そして、日付が変わって翌日の朝――夜の内に洗濯を済ませておいた朱莉はベランダに洗濯物を干していると、航が部屋から出てきた。「おはよう、航君。サンドイッチを作ったから一緒に食べよう」「ええ!? 忙しくなかったか? 朝っぱらからサンドイッチを作るなんて」「そんなこと無いよ。意外と簡単なんだから。さ、食べよ」朱莉が用意したサンドイッチは卵サンドに、ハムレタスサンド、そしてツナサンドだった。そしてそれを野菜ジュースと一緒に食べる。「うん、朱莉は本当に料理が上手だよな」航はサンドイッチを口にしながら朱莉を見つ